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Hiromoto Toeda Archive
戸枝 陽基(とえだ ひろもと)ワールドへようこそ。
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街の中でふわりふわりと考えるvol.22「オカアサン!オキテ!」

 平成16年3月21日、僕は突如、16歳の子どもを持った。突如子どもを持ったと言ったって、隠し子が現れたとか、そういった類の話ではない。未成年後見人、つまり、ある子どもの法的な親代わりになったということだ。

 あれは、半年前の秋のことだった。ふわりが経営する喫茶なちゅで、僕は、一組の親子と向かい合ってコーヒーを飲んでいた。喫茶なちゅでお会いする数日前に、お母さんからふわりに電話があり、緊急に戸枝さんと話をしたいとのこと。僕は、何事だろうと思いながらも、お母さんと予定を合わせて、子どもさんが慣れている喫茶なちゅで会うことにした。

 お会いしてからしばらくは、子どもさんの最近の学校などでの様子を笑いながら話した。しばらく話をした後に、「えーと。それで、今日の本題なんですけれどね」とお母さんが、笑い話とまったく同じテンポで、今日の本題を切り出した。鞄をごそごそしながら何かを探している。
 「あれ、どこにやったかな。あ、あった、あった」お母さんが一枚の紙を僕に差し出した。「これ、見ていただけますか」お母さんが差し出した紙を笑顔の僕が受け取る。その紙に視線を走らせた僕は、笑顔が凍りつき、息が止まった。

 「私、末期ガンなんですよ。余命半年だって」お母さんが、凍りつく僕に、本当なんですかねというような不満顔で言った。お母さんが僕に渡した紙は、医者の診断書だった。僕は、体を堅くしながら、何回も何回も診断書に書いてある文字を読み返す。確かにガンだ。余命も書いてある。僕は、言葉を失った。

 お母さんが言った。「それでね。いろいろ考えたんですけれど。うちは母子家庭で、母ひとり子ひとりなもんで、この子を安心して託せるのは、ふわりさんしかないなと思って。障害の重い子だから、すごいご無理を言っているのは、わかっているんですけど。戸枝さん、私の全財産をこの子に残していくので、この子と一緒に生きて行って貰えませんか。お願いいします」真っ直ぐな目が僕を見る。

 突然のことに、頭が真っ白になりながら、僕は、ごくりと息を呑む。「い、いや、お母さん、別にガンだからって、死ぬと決まった訳じゃないし」動揺を隠しながら、僕は、うちの母の話をした。「うちの母は、二十歳で舌ガンをやってから、喉頭ガン、胃ガン、乳ガンと再発を繰り返しているんですけれど、不死鳥のように蘇り、いまだ元気で、介護保険を利用させてもらう年になっています。家族の間では、フェニックス敦子と呼ばれています。ガンなんて、死なない人は死なないんです」僕は、脂汗を流しながら、そんな訳のわからない話を一生懸命にした。
 お母さんが、にっこり笑って言った。「ありがとう。戸枝さん、私を励ましてくれているんだよね。私は、強いから大丈夫。でも、子どものことは、もしもの時のために、ちゃんとしておかなければならないでしょ」僕は、再び、ごくりと息を呑んだ。時間はない。ごまかしもきかない。今この瞬間に、このお母さんに、この子どもと一緒に生きていくのかどうか、決めて答えなければいけないのだ。

 僕は、念を押すように言った。「ふわりなんかでいいんですか。僕みたいな、いい加減な人間でいいんですか。大切な子どもさんを託すんですよ。入所施設なら、確実に死ぬまで面倒を見てくれるかもしれない。こんな不安定な、地域福祉のシステムで、本当にいいんですか?」
 お母さんが、言った。「私は、この子が障害があっても、普通に街で暮らせるように、自分で出来ることは、本当に精一杯やって来ました。私が死んでも、この子には、このまま、街の中で普通の暮らしをさせたい。その可能性があるのは、ふわりさんしかないんです。戸枝さん、ご迷惑でしょう。でも、どうしても、よろしくお顔いしたいんです」お母さんが深々と頭を下げた。
 その瞬間僕は、「こんな僕ですが、精一杯やります。ふわりがダメだったら、僕が引き取って、一緒に生きていきます。よろしくお願いします」と条件反射のように、深々と頭を下げていた。リスクとか責任とか、いろいろ考えていたことが、どこかに吹き飛んでしまっていた。こんなに想いを寄せていただいた。福祉人冥利に尽きる。ライフワークとして彼と生きる。それでいいと思ってしまった。

 それから半年が過ぎた。桜の便りがちらほらと聞こえてきた、3月20日。病床にお母さんに会いに行った。お母さんは、黄疸が出て、全身黄色になっていた。呼吸もひどく荒い。持って数日だと、ひと目でわかった。「お母さん、戸枝です。わかりますか?」お母さんが、ゆっくり、領いた。

 「今日は、子どもさん、連れて来ましたよ。会いたかったでしょ?」その瞬間、うっすらしか明いていなかったお母さんの目が、しっかり明いた。ぎょろっと落ち窪んだ目が、病室中を探している。僕は急いで、子どもさんをお母さんの横に連れて行った。お母さんが、残りの力を振り絞ってという感じで、点滴の針の刺さった手を伸ばす。こんな力がどこにと思うくらいしっかりと、子どもさんの手を力強く握った。お母さんの目から、ひとすじの涙が流れた。それを見て、泣いちゃいけないはずの僕も泣きそうになった。僕は、涙をぐっと堪えながら言った。
 「子どもさん、グループホームに入って、不安定になるかと心配したんだけれど、養護学校の先生に褒められるくらい落ち着いているんですよ。最近はリラックスして、他の住人さんに悪戯するくらいで・・・」僕は、手を握り合う親子の間で、一生懸命楽しそうに振舞った。

 そんな僕をお母さんがじっと見た。何かを言おうとしていると感じて、僕はお母さんを見た。目が合った瞬間、お母さんの口が動いた。声は出なかったけれど、何を言ったのか、僕には、わかった。
 「あ・り・が・と」「お・ね・が・い・し・ま・す」その瞬間、僕の胸は、何ものかが鷲づかみしたかのように苦しくなった。泣いてはいけない。僕は、お母さんの手を握り、作り笑顔を浮かべた。
 「何言ってるんですか。ガンに負けず、子どものために、ずるずる長生きしてやるって、あの時、なちゅで笑って言ってたじゃないですか」お母さんがゆっくり領いた。もうすっかり覚悟をしていることがわかった。僕は、もっと強く、お母さんの手を握りながら言った。「大丈夫ですよ。僕が子どもさんと一緒に生きていきますから。ふわりのみんなで、生きていきますから。大丈夫です。安心してください」お母さんがゆっくり領いた。その後、力を使い果たしたという感じで、再び目を閉じた。

 「もう行こう。お母さん、疲れちゃうといけないから」今にも病室で、泣き出してしまいそうだった僕は、一緒に行ったスタッフにそう言って、急いで病室を出ようとした。「行きましょう」スタッフが、子どもさんを促して、病室を出ようとした。
 その瞬間だった。いつもはオウム返しという、言われたことをそのまま返すような発語しかない、子どもさんが、お母さんに向かって、突然、叫んだ。「オカアサン!オキテ!」そして、頑として動こうとせず、泣きそうな顔になって、持っていた帽子を噛んだ。僕はあ然として、さらに、泣きたくなった。わかっているのだ。彼は、お母さんがただならぬ状態だということをわかっているのだ。16年間、母子家庭で、しっかり寄り添ってきたふたりの最後の瞬間。胸が引き裂かれそうだった。

 翌日の朝。お母さんは、静かに息を引き取った。そんな訳で僕は、突如、16歳の子どもを持つことになった。こういう事態になって、今、とりわけ思うことは、僕は、間違いなく、彼の死ぬまでを支援出来ないということ。彼が70歳まで生きたとすると、その時、僕は90歳だ。
 地域福祉という営みを、何世代にも渡るものにしなければいけない。僕の想いを、100年続く営みにしなければ、彼の人生やお母さんの想いに責任が持てない。若いスタッフ達は、そこをわかってくれているだろうか。今日もお母さんの最愛の子どもさんは、知多の街で元気に生きている。


出典
戸枝 陽基
 “季刊誌「ふわふわ」2004年4月 『街の中でふわりふわりと考える』“より


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