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Hiromoto Toeda Archive
戸枝 陽基(とえだ ひろもと)ワールドへようこそ。
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街の中でふわりふわりと考えるvol.14「福祉職人」

 父が死んだ。62歳だった。6月12日に入院してから1ヶ月と持たずに逝ってしまった。あまりに急な展開に、さすがの僕も心が着いていけず、父が死んだという事実を心の中で瞬間冷凍保存して、少しずつ溶かして確認するような毎日が続いている。

 うちの父は、大工だった。父が作った家に住んでいる人の評判を聞いていると、腕は良かったようだ。職人気質の人だった。僕は、小さい頃から、なんとなく、父の後を継いで大工になるのだと考えていた。そのため夏休みなどに、父の仕事を手伝いに度々行っていた。その時、父は「中途半端な仕事をするな」といつも言っていた。信用を得るには、1つひとつの仕事を丁寧に積み上げなければならないし、また、そうやって得た信用も、失うのは一瞬だと、大工という仕事を通じて、痛感していたようだ。

 入院前、父は全身に黄疸が出ていた。何かを予感していたかのように、たまたま、姉が撮影した入院前日の作業場に立っている父の写真を父が死んでから見せられたが、もう、その時には、誰の目にもわかるくらい、体中が黄色くなっていた。
 入院の日、その様子にひどく心配した姉から「パパが入院したんだけど、ちょっと普通じゃないよ」と電話をもらった。こちらの仕事を整理して、入院3日目、急いで群馬に帰った。病室に行くと、父は、思っていたより元気で、自分のことは自分ですべてやれるくらいだった。しかし、確かに、全身の黄疸は普通ではない。その様子と、姉から聞かされていた、医者から家族に言われていた情報を総合的に考えると、生死に関わる状態だということはすぐにわかった。

 父はとても穏やかな顔をしていた。僕は、病院の椅子に座りながら、呆れ口調で父に聞いた。「なんで、こんな状態になるまで、病院に行かなかったの」父は答えた。「墨付けをしちゃった家があるんだよ」僕は、すべてを理解し、はぁーと深いため息をひとつついた。

 墨付けというのは、家を建てる時に、ほぞ穴の位置などを木材に墨で書いていく作業のことをいう。これは、確かに図面に基づいて行われるので、図面を見れば、大まかにどの位置を指示した墨なのかということは、わかると思うが、相手は木という生き物なので、その材の状態によっては、微妙な組み合わせ方などは、きっと、墨付けをする大工がその場面でイメージを膨らませて決めていくのだと思う。 父の言う「墨付けをしちゃった」というのは、そういう意味で、少なくとも棟上げまでは、仕事を抜ける訳にはいかないということだ。今回の家は、父がとてもお世話になった方の家なので、特に思い入れがあるようだった。父は、結局、入院後も点滴の時間が終わると、看護婦の通用口から抜け出しては、現場に行っていた。中途半端な仕事をするのが、まさに、死ぬより嫌だったのだ。

 思い返すと、父は、僕が中学生の頃、結核になった時にも、家族の説得を受け入れず、苦しそうな咳をしながら、頑として病院に行かず、働き続けた。その時にも、入院した父に、なんで、病院に行かなかったのかと尋ねたことがあった。
 その時、父が言ったのは「肩口から鉄の棒で刺されているような痛みがあったので、たばこをたくさん吸っていたから肺ガンになったと思った。自覚症状から考えて、末期ガンで助からないと感じた。それなら、仕事に穴も空けられないし、残される家族のためにも、少しでもお金が残るように、ぎりぎりまで働こうと決めた」とのことだった。
 あまりに無茶苦茶で、その時もあ然としたが、どうしようもなく、そういう人だった。誰かのためという大義名分があると、自分の苦しみを突き抜けてしまうのだ。

 この人の超人的な我慢強さを考えると、今、目の前で平然としているけれど、やっぱり普通の状況ではない可能性が大きいよなと僕は考えた。そこで、僕は、父にそれとなく聞いてみた。
 「もう、パパも60歳過ぎたしさ。今までまじめに話したことなかったけれど、いい機会だから、もしもの時のために、長男として遺言とかあったら聞いておくわ。なんか、家族に言い残すこととか、やり残したこととか、ないの?」
 僕の質問に、父はしばらくうーんと唸って考え込んだ。そして、答えた。「ないんだよなぁ」僕が拍子抜けした顔をすると、それを見て父が言った。「だって、俺は、結核やって、その後、糖尿でも死にかけただろ。その度に余生をどう生きるかって考えてやりたいことをやってきたから、特にないよ」
 僕は、何かしてやれることがないかと思っていたので、少しがっかりしたけれど、人生の最後に、やりたいことはすべてやったと言える父がとてもうらやましくもあった。

 入院してからの父は、体力のぎりぎりまで、大好きな仕事をさせてもらい、妻と苦労をして育てた7人の子ども、その配偶者とそこに生まれた孫達が絶えることなく訪れる病室で、知り合いの看護婦さん始め多くの方に支えられ、お世話になった方から一通りの見舞いを受け、こんな恵まれた最後を迎えられる人はほとんどいないだろうという日々を送った。

 父は、結局、末期の胃と胆のうのガンだった。入院した時には、手の施しようがなかった。僕たち家族は、父が痛みと絶望の中で死んでいくという事態が起こるのだけが恐かった。治療は、痛みをいかに和らげるのかということに重点が置かれた。医療というのは、こういう状態になった時、あまりやれることがない。看護や介護の技術は、もう、治療を施すことのできない者にも、その死にゆく環境を整えるという部分で、とても有効で、できることがいろいろある。とりわけ、心を支えることができる。
 僕は、ひとりの介護者として、いかに父が最後まで希望と尊厳を持って終わりを迎えるのかを考えた。その方法として、ガンの告知はしなかった。家族みんながそう願った。もし、何か、治療の手段がひとつでもあるのなら、一緒に闘おうと父に話したかもしれないけれど、その手段は何もなかった。

 7月6日。1週間くらい前から、薬の副作用か、幻覚が見え始めた父が24時間ひとりにしないでくれと言ったので、家族が交代で父についていた。みんな疲れているだろうと、せめて一晩だけでも交代しようと僕が群馬に帰ったその日に、僕の目の前で、父は息を引き取った。まるで、僕を待っていたかのようだった。不思議なくらい苦しむこともなく、次の息がでないという感じの終わり方だった。
 それから数日は、悲しいなどと言っていられる余裕はなかった。通夜、葬式、納骨の準備、次々訪れる方の応対など、寝る間もないとはこのことだといった感じだった。しかし、そんな合間にも、ふっとひとりになる時間がある。そうすると、今まで体験したことがない、突き上げてくるような悲しさが襲ってきた。「うっー」という低い声が体から発せられ、押さえようとする意志を無視して泣けて困った。

 そんな怒濤の1週間を過ごし、くたくたになって、知多に帰ってきたのが、7月10日の夜だった。しばらく仕事なんてしたくなかったが、7月18日までに、計画している施設の申請書類を仕上げて県庁に持っていかなければならなかったので、その後も、まさに寝る間もないという感じで書類を書いた。

 今回、計画している施設予定地は、病院に隣接している。ふわりでは、どんなに障害が重くても希望する地域でふつうの暮らしを最後までといつも言っている。障害の重い方を地域で最後まで支えるには医療と看護がどうしても必要になる。病院の横に設置され、医療と連携をしながら動く看護士のいる施設。「地域生活がいいと思うけれど、死ぬまでは面倒見てくれないでしょう。生活の質なんて、生存権が最後まで保証されて、はじめて考えることだから」と言って入所施設を選ぶ方に反論できない自分を変えるためにも、どうしても実現したい。縁起でもないかも知れないが、地域生活のシステムで、葬式まで立派に出したとき、多くの人が地域で暮らすことを本当に安心して選ぶのだと思う。

 そのために、必要な準備、課題はなんなのか。このタイミングで父が逝ったのは、そこを深く考えろと言われているように思えてならない。「中途半端な仕事をするな」父の声が胸に響く。大工は継げなかったけれど、職人気質な性格を父から受け継いで、地域福祉をやっていこうと思う。

出典
戸枝 陽基
 “季刊誌「ふわふわ」2002年7月 『街の中でふわりふわりと考える』“より


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