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Hiromoto Toeda Archive
戸枝 陽基(とえだ ひろもと)ワールドへようこそ。
時間の許す限り。ごゆるりとお立ち寄り下さいね。

街の中でふわりふわりと考えるvol.12「飛べないカッコウ」

 最近、ある会議で、とても興味深い話を聞いた。その話を聞いたのは、縁あって僕が、たまたま、お手伝いすることになった、子どもの育ちを支えるNPO法人の設立準備に関する会議だった。幾度となく、論議が重ねられてきたその会議で、その日は、具体的なサービスメニューなどを話し合っていた。
 様々な立場の人が集まり、それぞれの視点から問題提起をするのだけれど、面白いほど、それぞれの問題意識は、一致していた。今の子どもに足りないもの、それは、実体験に基づく学習、生活力のようなものだということだった。僕も参加している方の話にいちいち深くうなずき、自分も同意を伝えるため、発言をした。「僕は、ふわりを始める前から考えると、10年近く、延べにすると数百人の学生ボランティアと付き合って来ましたけれど、なんか、年々、生活力とか、相手の気持ちを察する力とかいう、介助者として必要な力を持っている学生が減っているという危機感を感じています」
 
 障害のある方の生活支援の場合、介助者が1番必要とされる時間帯は、夕方3時頃の養護学校・施設終了時間から翌日の朝までだ。お年寄りの介護保険で中心になっている主婦の介助者の方で、その時間帯に活動できる方は、とても少ない。子育てを終わった方なら可能という感じだが、元気に動き回る若い障害のある方達の対応となると、やはり、体力的にそれについていける介助者が必要だろう。ということは、障害のある方の生活支援の場合、必然的に、若者が、その介助者の中心になるように思う。
 そう考えたとき、質の高い若者の介助者をいかに確保するのかということが、大袈裟でなく、障害のある方の地域生活を豊かなものにできるか、否かの分かれ目になるように思う。その若者の中に、介助者としての資質を持っている人が、どんどん少なくなっているという事実。本当に危機的なのである。

 「包丁は調理実習でしか握ったことがないとか、ご飯をといでと言ったら、真顔で洗剤は入れますかとか聞く人までいるんですよ。若いだけあって、教えれば、確実に変わっていくんですけど、それに付き合うほうは、結構、大変ですよ」僕がそう話すと、今度は、他の参加者がうんうんとうなずいている。「どうして、こんな人達が増えちゃったんでしょうね?」僕は、究極の質問をしてみた。

 しばしの沈黙の後、長年、子育て支援に関わってこられた、ある方が話し始めた。「きっとそれは、専業主婦が増えたからだと思うの」僕の頭の中に、?マークで一杯になる。専業主婦が増えたということは、母親が子どもの教育に使える時間が増たことを意味する。だとしたら、もっと、質の高い子どもの育成がなされそうなものだ。それがどうして、逆に子どもの生活力低下と関連して来るのだろう。

 その方は言葉を続けた。「人間って、誰でも、人から認められたいとか、褒められたいという欲求を持っているでしょ。それが、専業主婦って、家事などは、やって当たり前と思われていて、誰からも褒めてもらえないし、子育てで忙しくて、何か社会的に認められる活動をする暇もないって状態になるから、人として認められた、褒められた、うれしいなんてことがなくなっちゃうのよ」
 なるほど。専業主婦は、そんな心理状態になるのか。人間は本来、生物学的に考えると群れをなす生き物らしい。群れをなすということは、集団の中で、何らかのポジションを持つということでその存在を確認する生き物だということだ。それが、実感できないというのは、すごく辛いことだと思う。
 
 さらに、話しは続く。「自分が褒められることがないと、子どもの評価でも、自分が褒められたように感じるようになっちゃうのよ。お宅の子どもさん、足速いわねとか、この間のテスト、学年で1番だったんですってねなんて言われると、自分の育て方が認められた気がして、舞い上がっちゃうのよ。それが、どんどんエスカレートして行くと、子どもが望んでいないのに、自分の満足のために、勉強を強要したり、何か、習い事などを必要以上にさせたりするようになっちゃうのよ」

 ほぉーっと僕は、感嘆の溜息をつく。なんてわかり易い、教育ママのメカニズム説明なんだろう。そうかぁ、母親の社会的孤立が子どもへの過干渉を生むわけかぁ。納得なっとく。

 専業主婦が登場する以前は、日本中みんな貧しかったから、ほとんどの家が両親とも、何らかの仕事を持っていただろう。だから、その子ども達も、ある者は家庭の中で、また、ある者は、幼少の頃から社会の中で、それぞれの役割を持たされ、まさに、実体験に伴った学習を否応なくしなければならなかったのだろう。両親は忙しかっただろうから、まさに、背中で、子ども達にいろいろなことを語っていたのだと思う。その背中の説得力と、ある意味では、過酷な環境が子ども達の生きる力を育んだのだ。
 世の中が豊かになって、母親が家にいられるようになったことが、母親を孤独にさせ、過干渉を招き、その結果、子どもから様々な実体験をする機会を奪った。なんて皮肉なことだろうか。

 そこまで、一気に、頭の中で思い描いて、突然、このメカニズムは障害のある子どもを持つ母親にもぴったり当てはまることに気が付き、僕は、むふぅーとひとり、また、唸った。

 障害のある子どもを持つ母親の場合、あなたの子どもは障害がありますよと言われた日から、まずは、子どもの命を守ることで必死になる。それがある程度確保されたら、今度は、その子どもの社会参加を勝ち取るために、役所などを相手に交渉をし、保育園や通園施設を探す。その次は、学校を探し、同時にそこを卒業した時に備えて施設などを探し、場合によっては、自分で作る運動をする。まさに、自分の自己実現などはそっちのけ、生活のすべてを障害のある我が子のために費やすことを否応なく求められる。日々の子どもの介助もあり、それを支える仕組みもないので、専業主婦をせざるを得なくなる。

 そうすると、どうしても人間関係も希薄になるし、様々な情報収集もしにくくなってしまう。その結果は教育ママのメカニズムの通り。例えば、産まれて数ヶ月で死んでしまうと言われた子どもが、何年も元気に生きていることを誇りに思ったり、しゃべれないと言われた子どもがしゃべれるようになったことを自慢に思ったり、まさに、我が子の成長が、自分の自己実現というか、その存在意義に直結してきてしまうのだ。福祉の世界でよくいわれる、母親による子どもの「抱え込み」状態一丁あがりである。

 でも、障害のある方の母親の場合、ひとつだけ、教育ママと根本的に違うことがある。それは、本人が望んで、そうなったわけではないことだ。障害のある子どもが生まれるまで、ある人は、いろいろな趣味を持っていた。また、ある人は、仕事に誇りとやりがいを持っていた。みんな、本当は、それを続けたかった。でも、まわりの「障害のある子どもを産んだのはあなたでしょ?」という、根拠のない責任論、見えない圧力に屈して、子どもの成長だけを考えざるを得なくなってしまったのだ。

 僕は、障害のある方のお母さん達を見ていると、いつも、カッコウの育児を思い出す。カッコウという鳥は、ホオジロという鳥の巣にそっとたまごを産み、ホオジロの親に、育児をさせる。ホオジロより、カッコウの方が、かなり大きいから、ホオジロのお母さんは、自分より大きなカッコウの子どもに、その大きな体が満足するだけ餌を、一生懸命運び続けることになる。自分より大きな命を維持するという営みは、ひどく大変なことだろう。ふつうのカッコウの育児は、巣立ちとともに終わるけれど、障害のある方のお母さん達がせっせと育てているカッコウは、ひとりでは、飛べない。ホオジロお母さん達は、その体力の絶える瞬間まで、自分より大きな飛べないカッコウを支え続けるしかないのだろうか。

 神様のいたずらで、突然自分の巣に現れたカッコウの子どもを、文句ひとつ言わず、大切な命として慈しんでいる働きもののホオジロお母さんに寄り添い、この子を育てているのは、あなたひとりじゃないよと伝える。たまには、子育てを代わって子どもの巣立ちの後、自分が何をして生きていくのか、見つけに行ってもらう。そういうことを丁寧にやったとき、「この子、羽がないけれど、間違いなく巣立とうとしています。僕たちが一緒に飛びますから、連れて行っていいですよね」ということができ、ホオジロお母さん達も心から「お願いします」というのではないだろうか。そんな支援が必要だと思った。

出典
戸枝 陽基
 “季刊誌「ふわふわ」2002年1月 『街の中でふわりふわりと考える』“より


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